MRiが生まれる前のこと

「MRiはどのように始まったのですか?」
と聞かれることがよくあります。
実は私は会社の社長になろうと思ったことなど一度もありませんでした。
1990年代後半、日本ではバブル崩壊後の厳しい時代が続いていました。そんな中、私はそれまで続けていたテレビ番組制作の仕事を失いました。安定していた収入はなくなり、日々の生活を立てるだけでも精いっぱいの毎日が始まりました。
今でも忘れられない光景があります。
渋谷の街で財布の中の小銭を数えながら、「田園調布の弓道場まで行く電車賃は足りるだろうか」と確かめていた日のことです。
今振り返ると、あの頃は私にとって大切なことをたくさん教えてくれた日々だったと思います。


そんなある日、友人から一本の電話が入りました。
「あるお医者様に英語を教えてくれない?」
私の返事は即答でした。
「No.」
それまでの経験から、お医者様はとても忙しく決まったスケジュールでレッスンを続けるのは難しいことを知っていました。
当時の私は定職こそありませんでしたが、翻訳の仕事でなんとか生計を立てていました。葉祥明さんの本を10冊翻訳するなど、それなりに忙しくしていたので予定の立てにくい仕事を増やしたいとは思わなかったのです。

自由国民社HPより


それでも友人はあきらめず、最後にこう言いました。
「その先生、形成外科医なの。」
その一言で、私の気持ちは少し変わりました。
「形成外科医なら、いつかお世話になる日が来るかもしれない。」
そんな単純な理由で、私はお引き受けすることにしました。
あのときの小さな決断が、その後の私の人生を大きく変えることになるとは思ってもいませんでした。


その先生こそ、松倉知之先生でした。
今思えば不思議なことですが、英語を教えるはずだった私がいつの間にか教わる側になっていました。
英会話は少し苦手だった松倉先生ですが、皮膚の構造については完璧な英語で説明することができました。
私は美容医療という世界にすっかり魅了され、先生から本当に多くのことを学びました。
当時、先生はオバジ ニューダーム システムや高度なケミカルピーリングを用いて、ダメージを受けた肌を劇的に改善されていました。


その様子を見て、私は先生にこんなことを尋ねました。
「私がメーカーと直接交渉すれば、日本への輸入コストを抑えられるようになるのでは?」
私はお給料をいただこうとしたのではありません。
お願いしたのはパソコン1台と海外出張の旅費、そして当時の国際ビジネスには欠かせなかった高額な国際電話代だけでした。
まだメールもインターネットも、今のように日常的に使われていなかった時代です。
先生はその提案を受け入れてくださいました。
その小さな約束が、私にとって国際医療ビジネスへの第一歩となりました。


私はアメリカへ渡り、ゼイン・オバジ先生とその会社を訪問しました。
最終的には、すでにロート製薬との交渉が進んでいたため契約には至りませんでした。
ですが、その経験から私はもっと大切なものを得ました。
世界の革新的な医療製品を日本へ紹介することが、私は本当に好きなのだと気づいたのです。
その頃、アメリカ滞在中に偶然テレビで「プロアクティブ」のインフォマーシャルを目にしました。
私はすぐに動き、松倉先生のクリニックで直接輸入できるよう手配しました。
その後、Guthy-Renker社(「プロアクティブ」を取り扱う会社)が日本法人を設立するまでの数年間、私たちは一緒に仕事を続けることになります。


同じ頃、オバジ先生ご本人による集中的なスキントリートメントを受けた私は、その素晴らしい肌状態を維持できる製品を探し始めました。
そして、その探求の末に出会ったのが、ダラスにあった小さなスタートアップ企業、SkinCeuticalsでした。

会社はまだ小さかったものの、その科学には目を見張るものがありました。
その頃、松倉先生と私は「ネオメディック」という会社を設立しました。そして私は、何年ぶりかに毎月のお給料をいただくことになりました。月10万円でした
ネオメディックを通じて、松倉先生、そして日本を代表するレーザー機器販売会社のひとつであるJEMECとともに、私たちは「スキンシューティカルズ」を200名以上の日本の医師の先生方へご紹介しました。
とても刺激的な時代でした
革新的な科学が日本で受け入れられていく様子を目の当たりにし、イノベーションは本当に人の人生を変えることができるのだと実感しました。


ところがその後「スキンシューティカルズ」はロレアルのグループ企業となり、私たちの海外販売契約は突然終了しました。
残念ではありましたが、その頃には私自身の中で別の大きな変化が起きていました。
興味の向かう先が、少しずつ変わり始めていたのです。
美容医療によって見た目は10歳若返っても、ご本人は「年を取った」と感じたまま――そんな患者さんを何人も見てきました。
そして、私は自分自身に問いかけるようになりました。
「見た目が10歳若返っても、気持ちまで若返らなければどんな意味があるのだろう。」
この問いが、私の人生を再び大きく動かしました。


ある形成外科学会で、早朝に行われた任意参加の「バイオアイデンティカル・ホルモン補充療法(BHRT)」の講演を受講する機会がありました。
松倉先生に参加してもよいか伺うと、先生は快く送り出してくださいました。
あの日の一つの講演が、今では25年以上続く私の探求の始まりとなっています。


ホルモン療法について学び続けていたある日、松倉先生が思いがけない提案をしてくださいました。
まったく別の会社を作り、私にその社長になってほしいというのです。
私にはとても信じられませんでしたし、最初はお断りしました。
会社を持ちたいと思ったことなど、一度もなかったからです。
それでも先生のお考えは変わりませんでした。
その決断が、私の人生を再び大きく変えることになります。
会社の社長になることなど想像したこともありませんでしたし、資本金300万円で始まる小さな会社が、その後どのような未来につながっていくのかなど、なおさら想像もしていませんでした。

来週は、それからMRiがどのようにして生まれたのか、そして「3年も続かない」と言われていた会社がどのように歩み始めたのかをお話ししたいと思います。

 

 

この記事を書いた人
リッキー二宮

リッキー二宮

Medical Research International(MRi)代表
ジェーン・アイルデールやリバイタラッシュ、ナチュラルホルモン総合補充療法など、米国をはじめ世界中の最先端の美容医療を日本に紹介。
日系3世。オレゴン州ポートランドに生まれ育ち、ハーバード大学教育学部大学院卒業後に日本へ移住。教育テレビ番組制作、アメリカ合衆国下院での仕事、国際ビジネスなど海外への広い視野と経験が高い評価を得て、TVドキュメンタリーや映画の脚本・制作、プロデューサー、ライターとして幅広く活躍。2003年にMRiを設立し、世界中の最先端の美容・予防医学・代替医療のコンサルティングに関わり、世界各国で美しさの進化に貢献している。

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