ポートランドが私にとって特別な理由

故郷のポートランドへ帰るたびに、胸いっぱいの懐かしさが込み上げてきます。
それは幼い頃の思い出だけではありません。私の家族の歴史をたどる旅でもあるのです。

私はとても恵まれた、幸せな子ども時代を過ごしました。
今振り返ると母は弟や妹、そして私に自分自身が得られなかったあらゆる機会を与えようと懸命に働いてくれていたのだと分かります。
多くの母親がそうであるように、私の母も子どもたちには自分より良い人生を歩んでほしいと願っていました。
でもその想いは母にとって、もっと深い意味を持っていたのです。

私の両親はアメリカの歴史の中でも最も暗い時代を経験しましたが、
両親がそれを私たちに話すことは一度もありませんでした。
第二次世界大戦中、両親は日系アメリカ人であるという理由だけで強制収容所へ送られていたのです。そのことを私は17歳になるまで知りませんでした。
ある日、高校の社会科の授業で教師が一本のドキュメンタリー映画を上映しました。
歴史の映像を見ること自体は珍しくありませんでしたが、私にとってその日は特別でした。
映し出されたのはポートランドに暮らしていた日系アメリカ人の家族が、持てる荷物だけを手に自宅を離れるよう命じられ、列車でアイダホ州のミニドカ収容所へ送られていく姿でした。
そこで彼らは、有刺鉄線に囲まれた粗末な兵舎で何年も暮らすことになったのです。

 

Portland Assembly Center

当時のポートランド仮収容所の様子は、Oregon History Projectで公開されている歴史資料からご覧いただけます。
出典:Oregon History Project(Oregon Historical Society)
詳細はこちら:Japanese Evacuees, Portland Assembly Center

 

それは日本にルーツを持ち、私の故郷・ポートランドでアメリカ人として日々の暮らしを送っていた人々でした。

私はあまりの衝撃に、顔が真っ赤になるほど恥ずかしくなりました。
自分が何も知らなかったことが、とても恥ずかしかったのです。
思えば、両親の話の中で時折「キャンプ時代の友人」が出てくることがありました。
私はずっとガールスカウトのキャンプか、サマーキャンプのことだと思っていました。
まさかそれが、家や仕事、自由、そして尊厳まで奪われた強制収容所のことだったとは想像もしませんでした。

その映画が終わると、すぐにもう一本のドキュメンタリーが始まりました。
さらに胸が締め付けられる内容でしたが、映画が終わると授業終了のベルが鳴りました。
誰も何も話さず、次の教室へ向かいました。
議論もなく、質問もなく、その話題は翌週にはまるで何事もなかったかのように終わってしまったのです。

その日の放課後チアリーディングの練習を終えると、いつものように母が迎えに来てくれました。
車に乗り込んだ私は、すぐに母へ尋ねました。
「お母さん……あの収容所にいたの?」
母は静かに聞き返しました。
「何の収容所?」
「あの収容所よ!」
そして私は、世界は公平なものだと信じていた17歳らしい率直さでこう言ったのです。
「どうして黙っていたの? どうして抗議しなかったの?」
そのことを本当に理解できるようになるまでには、それから何年もの歳月が必要でした。

両親は、日本人としてのルーツを隠そうとしていたわけではありませんでした。
ただ私たちを守ろうとしていたのです。
母が私たちに日本語を教えなかったのも、「自分たちはアメリカ人なのだ」という思いを持って育ってほしかったからでした。
その代わり、母は地域社会とのつながりを何より大切にしてくれました。
母はガールスカウトのリーダーを務め、私はチアリーダーや生徒会活動に参加し、学校ではたくさんの友人に囲まれて育ちました。
母は私たちが社会の一員として自然に受け入れられ、自分自身が経験した偏見を味わうことがないように願っていたのです。
今になって思えば、母が私たちに与えてくれた一つ一つの機会は、自身が経験した理不尽な出来事に対する静かな勝利だったのだと感じています。

今でも、あの時代を思い返すと胸が熱くなります。
両親や祖父母は市民として当然保障されるべき権利を奪われ、自らの意思とは関係なく列車に乗せられ、行き先も分からないまま収容所へ送られました。
その理由は、ただ「日本にルーツを持つ」ということだけでした。

今回ポートランドへ帰省した際、幼なじみが私をウォーターフロントへ連れて行ってくれました。
そこには、私がこれまで一度も見たことのなかったものがありました。
ポートランド・ライオンズクラブと札幌ライオンズクラブが姉妹都市提携35周年を記念して1994年に建立した、父を称える噴水です。
その前に立った瞬間、私は涙をこらえることができませんでした。
かつて「この国に完全には受け入れられていない」と感じさせられた父が、その後、自ら愛した街から敬意をもって称えられていたのです。

その瞬間、私の胸には、両親だけでなく祖父母への深い感謝の気持ちがあふれてきました。
祖父母の強さ、尊厳、そして静かな忍耐があったからこそ、今の私があります。
祖父母は決して苦しみや悲しみに人生を支配されることはありませんでした。
それよりも、「アメリカ人であること」と「日本人のルーツを持つこと」の両方に誇りを持つことを私たちに教えてくれたのです。
それこそが、私にとってのポートランドです。
ただ育った街というだけではありません。
家族が経験した理不尽な出来事、そこから生まれた強さ、赦し(ゆるし)、そして未来への希望。そのすべてが、この街には詰まっています。

 

 

 

 

この記事を書いた人
リッキー二宮

リッキー二宮

Medical Research International(MRi)代表
ジェーン・アイルデールやリバイタラッシュ、ナチュラルホルモン総合補充療法など、米国をはじめ世界中の最先端の美容医療を日本に紹介。
日系3世。オレゴン州ポートランドに生まれ育ち、ハーバード大学教育学部大学院卒業後に日本へ移住。教育テレビ番組制作、アメリカ合衆国下院での仕事、国際ビジネスなど海外への広い視野と経験が高い評価を得て、TVドキュメンタリーや映画の脚本・制作、プロデューサー、ライターとして幅広く活躍。2003年にMRiを設立し、世界中の最先端の美容・予防医学・代替医療のコンサルティングに関わり、世界各国で美しさの進化に貢献している。

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